中山道を歩き、奥深い山荘に泊まり、吉田川で魚を捕る

2012/09/14-09/16

 

8:45 鬼岩の駐車場から大きな岩が重なる小径を通り(鬼岩温泉は今は旅館・ホテルも廃業)、松野湖に出てしばらく歩き、中山道との交差点を横切って開元院(禅宗寺)まで約2時間。少し早いがここで昼食。手作りおにぎりが旨い。近道でまた中山道に出たところが69宿中48番の細久手宿。大黒屋、公民館を横目に見ながら、奥之田一里塚を見ながら歩みを止めず,弁財天の池まで1時間、ここで休憩5分。ここからが中山道らしくなってきた。昔の街道に舗装は合わない。琵琶峠の西の入口からは石畳の道、道幅役5m。峠を超えて下って、またアスファルトの道をしばらく歩くと、47番大湫宿(大久手)に着く。ここまで1時間。既に少しは落ち始めていたが、ここでいきなり激しい雨が降り出した。9月の中旬というのにこの日は暑く、名古屋のヒートアイランドで出来る上昇気流が積乱雲を作り、その雲がこの雨を降らせている。昔の風情とは少々違う。すごい勢いなのでとても動けない。30分もしてようやく止んだ。大湫宿はまずは大きな1300年の杉の木がある神明神社。昔の旅館がそのままにいくつも残っている。脇本陣も残っている。そこからすぐに十三峠の入口(峠が13ある)、旧街道の土の道は軟らかく、歩き易く疲れない。権現山一里塚を過ぎて、しばらく下ったら、その日に泊めて頂いた山荘に着いた15:20。歩行時間約6時間、全工程約30km。よくがんばった。


歩きながら考えていたことは、「早く山荘に着いてビールが飲みたい」だった。大きな敷地の自然をそのままに、実に上手く道や庭園や建物が配されている。当然、露天風呂もあり、皆でビールを飲みながら入浴。歩いた疲れが実に心地よい。ビールを飲みながら露天風呂、こんなこと何年ぶりだろう。夜は夜で、珍しい海の幸亀の手をつまみに、肉、松茸、野菜、マムシまで焼いて食らい飲み、最高の贅沢をさせて頂きました。

 

次の日は私は近くの権現山に登って権現社にお参り、他の人はお茶など頂きながら午前を過し、昼飯は皆で餅をついて、あんこや黄粉や雑煮でそれを頂いた。これがまた上手い。その後もう一度、皆でビールを飲みながら露天風呂に入り、有志は郡上に移動。長良川の大きな支流の吉田川の上流、ここは民家の別荘。天然鮎と家庭料理、またしてもマムシ(毎日は食べ過ぎ!)。火事のような焚き火、夜更けまで飲んで、2時頃ようやく就寝。

 

次の日の朝、仕掛けの中に子供の猪が3匹かかっていた。可哀想というよりは、美味しそうというべきか? (解体調理も結構大変だと思うけど、皆それが好きなのだろう。) この日は皆で某川へ鮎を捕りに行く。トモ釣りをやっている人は多いが、この日初めて見たのは、網を張って魚をある程度閉じ込め、1.5mほどの道具で、直接鮎を引っ掛ける漁法。私にはとても手に負えないので、私はひたすら水流に身を預けて、川の中を観察していただけですが、名人はあの俊敏な鮎を如何にして引っ掛けるのだろう?結構な収穫はあったが、今年はまだ水温が高く、腹に卵を持つ落ち鮎はまだのようだ。写真は少し小振りのサツキマス。私はウェットスーツを川で身に着けたのは初めてだったので、かなり興奮して頑張ったが、思ったより川は流れが速く、慣れないだけに水の中は結構疲れた。

 

出雲・米子・倉敷・直島 建築を巡る旅

2012/09/07-09/09

 

一人は出雲大社に行きたい、一人は直島を案内したい、私は菊竹さんの東光園に泊まりたいとの意見を合わせて、2泊3日の旅のコースが決まった。


9/7 7:00名古屋発 名神高速-中国道-米子道-山陰道を走って12:00出雲着。出雲大社は本殿の修繕工事中。もっと巨大なイメージを持っていたのでそういう意味では少し拍子外れ。参道も伊勢神宮に比べくもない。昔読んだ井沢元彦の「逆説の日本史」に出雲大社は大国主命を祀る怨霊を鎮める神社で、2拝4拍手1拝、しめ縄も通常と反対、当然ながら本殿の中は入れないが、神座は横を向いている、屏風は引っくり返っている、雲は死の象徴。一般に言われるような国譲りではなく、戦闘により破れたからその怨霊を鎮めるためと、本を読んだときはなるほどと思ったが、はたして?

出雲大社には菊竹さんの社務所(1963)もあったが、蔦が這っているのはいいとして、メンテされていないのでRCもPCも汚れが目立ちすぎる。これでは菊竹さんの名作も影が薄い。

 

米子の皆生温泉にある東光園が目的だったが、そこへ行く途中足立美術館に寄った。横山大観他日本画と日本庭園がすばらしいと聞いたことがある。まず驚いたのは、アプローチ100台も止まろうかという大駐車場、その向こうに倉庫のようなごついだけの建物がある。絶対にここではない、少し心ある人ならそう思うだろう。入場料の高さにも驚かされたが、中に入れば水族館のような庭園だった。意味がわからないと思うが行けば判る。いろいろな日本画があったが、何もここまで見に来ることもない。

 

東光園は竣工後(1965)既に47年経っている。菊竹さんは今年83才で亡くなられましたが、若き日の菊竹清訓がそこにいる思い。25才でスカイハウス、東光園は37才のときの作品。まさに菊竹さんの最高傑作だと思う。構造・形態は力強く、内部はどこひとつとっても細部まで考えられている。最近の建物にない気風がみなぎっていた。流政之が庭園を創るとは知らなかったが、その庭園からみる夜の外観もすばらしかった。私がもっと若いときに見たら、ルイスカーンのキンベル美術館を見たときほどに感動しただろう。室内もサービスもよかったが、残念なことに、ここもRC打放しが崩れたままになっているところが少し目立った。

 

9/8 山陰から山陽へ移動。岡山の近く小野港からフェリーで直島へ。まず家プロジェクトをみる。今までにない企画で面白いが感動はない。安藤忠雄のベネッセハウス、地中美術館、リーウーファン美術館(写真)どれも同じで、区別がつかなくなる。ジェームス・タレルの現代アートのオープンスカイは不思議な感覚だったし、空の切り取り方がすばらしい(撮影不可)。この人の作品もあちこちにあったが、執拗に光と知覚にこだわっている。蛇足ながら入館料が高過ぎる、地中美術館は2000円、家族4人で来たら8000円!)

 

この日は、国の登録有形文化財に指定されている築200年の庄屋屋敷に泊めてもらった。写真は主屋敷と長屋門。三宅家は保元平治の乱の頃からなので、800年以上続いているとか。崇徳天皇の御品などがあった。33代目当主と気が会い、飲み始めたらいろいろな話になったが、この人は元外務省のえらい人なのに見た目も話しても、そういうエリートだったとは全然思えないところがすばらしい。ずいぶん飲んで終いには、かなり値が張りそうなふすまに足をかけて眠ってしまったと思ったら、また生き返って飲み直した。直島は江戸時代は天領地だったが、以前から三菱マテリアルがあり、現在も精錬をやっているので裕福な島らしい。直島は最近はアートが有名だが、建築の本やガイドブックには書いてない話が聞けたことは収穫だった。

 

9/9 フランス風の朝食を頂いて、当主と二人のすてきな女性に見送られて帰るときは、名残惜しかった。直島からフェリーで戻り、30分ほどで倉敷に着く。なまこ壁の町並みが美しい。浦辺鎮太郎の大原美術館別館(1961、彫刻はヘンリムーア)、時間がなくて中へ入れなかった。外壁の汚れが残念。丹下健三の倉敷市庁舎(1960、現倉敷市立美術館)は外壁を補修していたが、RC打放しの補修がお粗末で、近づくとまるでペンキを塗ったように見える。これでは丹下さんの名声を高めた建築とは誰も思わないだろう。

 

13:30倉敷発、山陽道->新名神->東名阪、16:30名古屋着、2泊3日の実に楽しい旅だった。

 

登山用地図アプリが役に立つ

2012/08/23

 

私は趣味として、トレッキングやハイキングや渓流をやっている。行くことはもちろん楽しいが、私の場合は行くことと同じくらい、その地の地図を見る(調べる、理解する)ことが好きだ。この傾向は小学生の頃からだが、それが60を過ぎた今でも続いている。小学4年生の頃には、ちゃんとした地図帳買ってもらって、毎日のように眺めていたものだ。地図帳から始まって、地図の使い方もいろいろ変遷を経たが、最近はもっぱらPCやiphoneのソフトが面白い。その中で特に山登りの好きな人のためのソフトが、実際に役立っている。

 

登山は事故の多い遊びだが、その40%以上が道迷いとのこと。そのため、私はiphoneに「DIY GPS」というアプリを入れている。このソフトは自分で地図を用意する必要がある(だからDo It Yourself)。例えば、国土地理院の地図または地形図(1/25000くらいが使い易い)を入れておく。自分の位置が分れば、あとは「DIY GPS」に任せればよい。このソフトの賢いところは、このDIYの部分である。地図データをインターネットに頼っていたら、インターネットが使えないところでは、何の役にも立たない。作者が自前で何らかの地図データを提供したら、データの更新が大変である。データをオフラインにすること、地図データをユーザ任せにすること、そこがポイント。使い勝手もなかなかよい、マニュアルの書き方も知性を感じる。もうひとつは「カシミール3D」というアプリ。国土地理院等のデータを基に断面図や3D透視図を描いてくれる。なかなか芸術的?な3D画面を作り出してくれるが、私はもっぱらこの機能より、kmzファイルを作ってくれる機能を使っている。ここで作ったkmzファイルを「DIY GPS」で読み込むためだ。このソフトはダウンロードしてWindowsで使う。もうひとつは「Trekking Map Editor」というソフト。このソフトもWindowsにダウンロード。このソフトは国土地理院のデータを簡単に、美しくプリントアウトしてくれる。プリントするためだけのソフトだが、国土地理院のデータを自分でプリントして貼り合わせたことがある人なら、このソフトの有り難さがよく解る。

 

iphoneはいまのところ電池の寿命が短いので、私は4回ほど充電できるような容量を持つモバイル・バッテリーを常に持っている。機械というものはいつ壊れないとも限らない。特に、iphoneに限らずコンピュータは雨や水に弱いことも極めて重要事項。iphoneや「DIY GPS」がいくら便利でも、紙の地図とコンパスは必需品である。

 

3年前には考えられなかったことが、出来るようになった。もっとさかのぼれば、国土地理院がデータを公開してくれたお陰である。私はこの便利で遭難防止のためにもなるソフトを登山だけでなく、渓流や散歩にも利用している。少し要望を出したいところもあるが、しばらくすればもっとよくなるだろう。

 

DIY GPS http://diygps.net

カシミール3D http://www.kashmir3d.com

TrekkingMapEditor http://softwareoasis.dip.jp/TrekkingMapEditor/TrekkingMapEditor.html

 

 

DIY GPSのiphone画面とアプリ開発者による実写(八ヶ岳赤岳)
DIY GPSのiphone画面とアプリ開発者による実写(八ヶ岳赤岳)
カシミール3Dによる燕岳からの展望CG
カシミール3Dによる燕岳からの展望CG

合気道の「氣」 と 素粒子物理の「神の素粒子」

 2012/08/08    

 

 植芝盛平翁は気の字を用いず氣と書いた。藤平光一10段は氣の米は氣が四方八方に発するもので、略字の気は〆が氣を閉じ込めてしまうと説いた。インターネットを見ていたら、氣の米は氣を集中すると書いてあったがこれも面白い。とにかく以前は、氣などと言うものはほんとうにあるというより、下手をすればマジックのタネみたいなもので、それらしいことを言っているのだとしか思えないこともあった。私はもともと理数系が好きで、大学では原子核工学科に学び、数学や物理の明解で美しい体系的な理論や、建築学科に変わってからは哲学に馴染んでいたからかもしれない。自分がこだわることに関しては、基の基まで疑ってみるほうだ。だから、壁の向こうはまだしも、海の向こうまで「氣」が届くなどということは、到底簡単には信じられるはずがない (そういう話は今でも信じられないが)。一方、第6感のようなどうしても否定できないものもある。だから、無意識のうちにそのようなものはあまり深く考えないようにしてきた。

 だが、合気道をしているうちに、ほんのちょっとした氣(気持ちとか意識)を自分と相手の間で交感させるよって、そのとき力を入れなければ入れないほど、相手に及ぼす力が大きいことに驚かずにはいられない、と同時に少しも乱れない「呼吸」の力を目の前に見せられると、理屈では合点がいかなくとも、言われてみればまさに合理的な動きに不思議さを認めざるを得ないのである。心身統一とか心身一如という言葉があるが、まさに心(氣)と身体は切り離せないどころか、一体になったところに、信じられないほどの力が潜んでいると思わざるを得ない。手の力を抜き、相手が嫌がらない気がつかない動きによって、力みの無いリラックスした自然体から、集中された氣に促されるとき、物理では説明できない驚くべきことが起こり、物理的にはあり得ないと結論付けるべきことであっても、心(意識)から発する指令が身体の全細胞に伝わることによって、無意識のうちに身体的な反応が引き起こされる。

 ちょうどその頃、「神の素粒子」と謂われる「ヒッグス粒子」が99.9999%以上の確率で二つのグループによって発見されたというニュースが入ってきたので、「氣」とはこの「ヒッグス粒子」のようなものかもしれないと思えてきたほどである。もっとも、科学者たちが長年拠り所としてきた「標準理論」を完結させるこの「ヒッグス粒子」についても、ホーキング博士などは「神の素粒子」は見つからない方に100ドル賭ける、そのほうが理論のどこかが間違っていることになるから、また考え直す必要があり、そのほうがエキサイティングだと言う。私も浅薄な人間が全てを解明し尽くすより、宇宙や自然や生命や身体などは、どこまで行っても神秘に包まれている方がよいと思うので、その方に賭けたくなる。しかし、質量は確かにあるが、なぜあるか解らないのと同じように、「氣」は確かに存在するがそれが何かは解らないと言うことが非科学的ではないと思えてしまう。まして「ヒッグス粒子」のように「氣」が物質として存在するのではないかと思うと、合気道の稽古にもより身が入るかもしれない?。

 

(注)「氣」に関しては、藤平光一の「氣の威力」等を読むとおもしろい。  

 

 

合気道について

2012/08/07

 

合気道を始めてかれこれ5-6年にはなるが、少しも上手くならない私にとっては、「道」は"Dou"ではなく "Michi(未知)"そのもの。だいたい「道」がつくものはすべからく奥が深い。特に合気道は、血気盛んな青年が御年80の老人に到底及ばないとは、やったことがない人には信じられないことだと思う。曲りなりに続けているうちに、自分では出来るわけではないが、最近少しは解りかけてきたことがある。「氣」とか「呼吸」とか「姿勢」とか「間合い」とかがポイントらしいということだ。合気道は襲いかかってこない人にこちらから攻撃することはないし、そうでなくても自分からは決して攻撃はしない。襲いかかられたら、倒されるわけにはいかないので、そのとき、はじめて対応する。相手はかかってくるからには必ず力を入れるから、自分の力ではなく、相手の力と重力だけで、叩き潰されるか吹っ飛ばされるというわけ。うまい人(合気道は強い人とは言わない)がその気になれば、その刹那相手は既に避けられず、信じられないスピードで吹っ飛ばされる。勝負は瞬間、一殺必中。そうはいっても普段の稽古は、筋肉を鍛えることも、スピードを鍛えることもしない。受身で引っくり返って転がったり起きたりはするから、たっぷり汗はかくけど、手も足も体も痛くも何ともない。おもしろいことに、合気道の基本はいろいろなことに共通する。

 

最近私は、渓流釣りはご無沙汰で、山登りをする機会が多くなったが、今思えば(当時は考えもしなかったが)、自然や川や魚に対して、釣ろうという意識が強過ぎたのではないか、釣ろうとする意識が強過ぎて、川や魚が送る信号を見落としていたり、逆にこちらの不自然な動きによって魚に見破られていたのではないか。渓流釣りもそんな段階では釣れるはずがない、最近になってそう思えてきた。渓流釣りは釣りの中でも難しいので、言うほど簡単ではないが、心構えとしては自然に合わせる、自然と一体になる、自然の一部になる、それが「氣」に繋がると思える。

 

山登りもまだ日が浅いので、何とも言えないが、合気道で学んでいることを応用できるかも知れない。私は登山というほどの険しい山に登る訳でもないし、ロッククライミングをやろうという訳でもないので、難しい技術は必要ないが、それでもやはり、自然と一体になるという気持ちが大切なのではないだろうか。

 

ゴルフも20年くらいはやっているのにいまだにへたくそだが、誰に教えてもらったわけでなく、本を読んだわけでないけど、自分でゴルフに合気道を取り入れて、まだまだ思うようには出来ないが、何をどうそればよいかは解って来たような気がする。

 

とにかく、合気道は単なる武道ではなく、真剣でやる剣術に似た心構えや精神性と、やればやるほど奥が深いという気がします。

 

 

仙丈ケ岳から甲斐駒ヶ岳へ

2012/08/04-08/06

 

山の会「くらら」の夏山合宿、2泊3日のトレッキング。1泊目は仙丈小屋、2日目は夜明け前から快晴で、日の出がすばらしい。仙丈ケ岳山頂からの360°パノラマはさらにすばらしかった。2泊目は仙水小屋。3日目は途中から天気が崩れ、雨が激しくなり過ぎたので、甲斐駒ヶ岳は8合目を過ぎたところでUターン、下見が出来たので次回のお楽しみ。帰り道はずっと雨が降っていたが、そのお陰で雷鳥がハイマツの中から出てきた。下界に降りたら雨は止んでいた。山の天気はわからないものだ。

 

中国貴州省東南部・桂林の旅(テーマ:中国の少数民族)

2012/06/14-06/20

 

中国歴史探訪会というグループで中国貴州省のミャオ族やトン族の集落と広西チワン族自治区の桂林を訪ねる旅に行ってきました。日本もかなりの昔これらの少数民族から影響を受けた可能性もあるという印象がありました。


2008年の統計によると、中国の人口は13.5億、そのうち92%が漢民族、少数民族はチワン族1618万、満州族1068万、回族982万、ミャオ族894万、ウイグル族840万、トゥチャ族803万、イ族776万、モンゴル族581万、チベット族542万、プイ族297万、トン族296万、ヤオ族264万・・・少数民族だけで1.1億程度、55種類になる。


今回の旅では主に中国貴州省のミャオ族とトン族の村(集落)を見て回った。ミャオ族はかつては洞庭湖やポーヤン湖の辺り、長江(日本では揚子江と言われる)の南、現在の江西・湖南・湖北省に住んでいたが、宋の時代に北方からの漢民族に追われて西へ移動し、山岳地帯に農耕を営むようになったらしい。加えて19Cに清軍の厳しい討伐や弾圧のためベトナム北部、ラオス,タイ、ミャンマーへも移住したと書かれている。漢民族に追われて逃げたからだろうか、ミャオ族の集落は大体山岳地帯の奥深いところにある。また、こう配のきつい斜面を利用して棚田を造る技術を開発したようだ。トン族の集落は川のあるところが多く、村の入り口にもなっていたりする風雨橋(風が吹いても雨が降っても大丈夫な橋)や、見張り台や集会場所にもなる鼓楼が特徴的である。


ミャオ族だけでなくトン族もそうだが、日本人に非常に似ている。漢民族と違って、背も低く体型も似ているが、子供も若者も年寄りもその顔の表情はそっくりと言っても過言でない。似ているようでどこか違うという違和感がない。彼らの素朴な振る舞いや素直な表情女性の恥じらいの様子までもが日本人と同じで見ていて楽しかった。

 

水稲や棚田、共有で使用する高床式の穀物倉庫、木造の高床式住宅(階数は高いものは4層くらい、日本と違って内部でも土足)、切り妻と入母屋の屋根(寄棟はない)、味噌・醤油・納豆(糸引き納豆は食べられなかった)・餅・赤飯、歌にあわせた廬笙(雅楽の笙の笛)や踊り、草笛の使い方、知らない人でも親切に接してくれる風習、山川石木に神を敬う神道に近いアニミズム的宗教観、これらが日本の文化との類似点かと思われるが、すべてが偶然ということはあり得ないだろう。民族は違うがチワン族には鵜飼い(魚は鮎ではないが)もあった。

稲作の起源は江西・湖南省あたりで1万年ほど遡るらしいが、これは焼畑による陸稲。水稲の起源は6000年ほど前浙江省あたりらしい。日本の稲作は陸稲に関しては紀元前3500年頃、水田の遺跡は紀元前500〜1000年頃まで遡るので、弥生時代とのことらしいが、ミャオ族等の影響があったとすれば、そんな時代に対馬暖流に乗って九州北部へ、あるいは南西諸島を経て九州南部に伝わったのかもしれない。食住等の文化はもう少し後の時代なのだろうが、彼らの先祖が日本の文化に何らかの影響を与えていることは間違いないのではないだろうか。

 

建築を見て思うことは、ひとつには、ミャオ族もトン族も住宅の造り方は似ているのだが、どちらも昔の様式を今でも頑なまでに守っていることである。いつ頃確立された様式か解らないが、今でも同じ材料で同じ工法(釘を使わない)で造っている。1階部分で煉瓦やRCなどを取り入れたりしているのは割りと新しい工法だろうが、基本的にはあまり変化していないように思われる。そのことは服装や女性の髪型等についても言える。先祖や親を敬い尊ぶ儒教の教えの影響だろうか?
もうひとつは、何かに付けて単純化をし、かつ合理的な考え方が徹底していることだ。例えば屋根の瓦は1種類しかない。日本の瓦と比べると大きさも厚さも1/3ほどしかないので、薄くて軽くて施工し易く見える。安っぽくも見える。この瓦を上向きと下向きに並べるだけである。屋根庇の鼻隠しもケラバの破風の役物も棟瓦ももちろん鬼瓦も何もない。棟の両端と中央に村によって異なる屋根飾りもあるが、それも全て同じ瓦で作ってしまう。単純と言えば単純、合理的と言えば合理的である。中国にも随・唐の時代、長安の寺院には本瓦も使われていたはずだし、日本にもそれは伝わっている。日本では瓦が進化して、今では桟瓦が一般的になっているし、納まり上いろいろな役物の瓦が必要である。このことひとつとっても、中国少数民族の建物と日本の住宅とでは、デザインと機能とコストに対する考え方が違うように思われる。

娘の結婚式 ハワイ・オアフ島旅行

2012/05/02-05/07

 

娘の結婚式

 

娘がハワイで結婚式。モアナ・サーフライダーは100年以上の歴史があるホテル。当時宿泊料が$1.50だったというから、現在の1/100以下。中央の部分と中庭は古きよき時代の面影を残している。式はセント・アンドリューズ聖堂、結婚式は写真を撮ることがメインのような感じだったが、式のあと海と空が美しい静かな場所でパーティーを催してくれた。式場での出来事などで大笑い。身内だけでゆっくりとハワイアンムードの楽しい時間を過ごすことが出来ました。

 

陣場形山

2012/02/07-02/08

 

目の前に南アルプスと中央アルプス全体が眺められる。