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高野山開創1200年

2015.05.09-10

 高野山と50年来のつながりがあるという人もいるグループに連れられて、今年開創1200年という高野山に行って来た。高野山という山(山頂)はなく、高野山という「お山」は山全体(聖地)であり、街(山上都市)だった。裾の表参道からバスで登ると「お山」の入口(西端)は「大門」で、中心部を過ぎて東端の「奥の院(弘法大師の廟)」まで5kmほどの距離である。中心部には檀上伽藍(中門,金堂,根本大塔等)があり「金剛峯寺」がある。檀上とは檀場すなわち修行するための道場という意味、もともとはそれが目的であった。金剛峯寺は117もの寺院(58の宿坊を含む)の総本山であり、お山で一番偉い管長もここにお住まいである。私たちは「龍泉院」という金剛峯寺からほど近い宿坊に泊めて頂いた。部屋は快適だったし、朝のお勤めでは昨年まで管長だった和尚さんがお経を読んで下さり、お話しを聞かせて下さった。ほんとは精進料理がとても美味しいとのことだったが、今年は1200年で皆さん他用で忙しく朝食しか頂けなかったのが少し残念でした。
 見てから読むと解り易いので、本を買って帰りのバスの中でにわか勉強をした。空海は今日でいう大学を中退し、空と海しか見えない室戸岬の岩の中で修行し、遣唐使として唐に渡り、西安の青龍寺で死期が近い7代目阿闍梨(あじゃり)から8代目阿闍梨の灌頂(かんじょう)を受けた。灌頂とは正式な継承者とするための儀式、空海の灌頂名は「遍照金剛」。だから、いつも唱えるお経は「南無大師遍照金剛」というわけ。意味も聞いたのでこの言葉だけは覚えることが出来た。
 おもしろいと思ったのは、インドで生まれた密教は中国に伝わり、偶然にも最澄や空海を経て日本に伝えられた。一方北方ではのチベットに伝わり、地理的条件の良さもあって、日本よりはるかに多くの経典がチベットに伝わった。密教はインドではヒンドゥー教の中に埋もれてしまったし、中国では儒教や道教が主流になってしまった。そして現在、密教が残っているのは、チベット、ネパール、ブータン、モンゴルと日本だけである。チベット仏教(密教)と日本密教は別々に発展したので教義も違うが、お互い交流している。ネパールのエベレスト地域へは一昨年行ったが、チベット仏教が生活に密着しており、僧侶もすごく真面目にお勤めしていた。高野山でも似たような袈裟を着た僧侶がたくさんいて、信仰心のある人達が真面目にお祈りしている姿をたくさん見た。
 私は密教をよく知らないので、密教を語る資格はないのだが、密教と聞くと何となく奥深そうで、秘密めいたイメージをいだいてしまうが、あまり難しく考えることもないのかもしれない。空海は高野の山中に外来の宗教の道場を作るにあたって、もともとの山の神に敬意を払い、仏教と神道を共存させている。もちろん密教が中心ではあるが、境内には鳥居も手水も狛犬もあり、神仏混合である。寺院や塔は白木の造りもあれば、地水火風空の五色で塗られた造りもある。奥の院までの参道には天皇、戦国武将、法然や親鸞、キリスト教など他の宗教・宗派の人の墓(墓と言っているが遺骨が入っている訳ではなく、正しくは供養塔)も多く、なかにはロケットやコーヒーカップまである。これは空海亡き後のことであるが、空海の教えはおそらく非常に柔軟性があり、排他的ではなかったであろうことが推察される。ついでに想像するに、空海はまた真言宗(真言密教)の開祖としての僧侶の枠を超え、土木・建築・書道・著作・宗教・哲学、例えればレオナルド・ダ・ビンチのように物事の本質と時代の先を見ることが出来る人に思えてくる。また話は少し違うが、全国を行脚した高野聖(こうやひじり)も信仰の拡大だけでなく、高野山経営のための営業マンを兼ねていたと考えると、堅苦しくなく現実的に感じられておもしろい。

御在所の岩場を登る 絶壁と花と山ガール

2015.04.29


岩登りの先生達に連れられて、御在所の岩場としては初心者向けの後尾根コースを登った。事前に豊田市の南山ゲレンデで何度かは練習したが、実際の岩場は臨場感があり多少勝手が違った。誰も途中で止まることもなく無事登ることが出来た。上の方はまだアカヤシオが咲いており、私たちと同じ山の会の若くてカッコイイ山ガールたちにも偶然出会った。
言うまでもありませんが、写真の岩だらけの崖や垂直に近い絶壁は見ただけで、ここを登ったわけではありません。


京都小旅行

2015/04/26-27

 

  福岡にお住まいの大学時代の先生ご夫婦と私たち5-7人で京都へ行って来ました。きっかけは先生がTVの番組で鳥羽美花の襖8枚(表裏)の染色の絵画を見られたことでした。その絵はベトナムの景色を題材にしたものでした。建仁寺の襖絵がベトナムの景色というところも変わっていますが、色彩や絵そのものも従来の日本画とはかなり違うものでした。先生はそれも見ながら、学生時代の思い出もある京都へ久しぶりに行ってみたいとFacebookに投稿された。しかし、その襖絵は何時でも観れるという訳にはいかなかった。でも、折角だから久しぶりに京都で会えたらいいねと私がつぶやいた。京都に詳しい友人がいて彼はすぐに企画を考え始めた。その友人の友人の娘は京都の大学に行っているのだが、その友人はそのまた友人のことを思い出した。建仁寺のすぐ近くにある高台寺の前住職が従兄で、タイミングが合えば案内してくれると言っていたことを。大阪に住むその友人はさっそくその前住職に連絡を取ってくれた。こうして今回、高台寺の前住職が極めて丁重な案内をして下さった。
 高台寺は秀吉の正室ねね(北政所、高台院様)...が秀吉の菩提を弔うために造ったお寺である。そこにある茶室は利休好み(利休作)とのことであった。傘亭と時雨亭の中に入れて頂き、お抹茶まで頂いた。これらの茶室は秀吉死後、伏見城から移築されたものとのこと。この小さな空間にかつては秀吉やねねが座し、大名でもよほどのことがなければ入れてもらえなかったとのこと。霊屋(otamaya)や開山堂も案内してくださった。これらは全てが重要文化財。高台寺は臨済宗のお寺だったが、前住職の話しは曹洞宗、親鸞、ニーチェ、サルトル、バチカンの話しにもなり、しかも解り易く自由な発想がおもしろく、時が経つのを忘れて気が付いたらかなりの時間いろいろな話しを聞かせて頂いた。
 次の日はこの旅行を計画してくれた友人が大徳寺の高桐院に案内してくれた。細部まで行き届いた新緑の日本庭園が素晴らしく、紅葉の時期ももちろんいいのだろうが、今の時期は観光客もそれほどが多くなく、最高にいい時だと思った。前日の夕食もこの日の昼食もおいしかった。昨夜は飲み過ぎのせいであることは確かだけれど、何故か私は気が付いたら先生の奥様と二人で同じ部屋に寝てしまった。そんなこともあったが、久しぶりの出会いと幾つもの偶然のお蔭で、また誰が欠けても出来なかったと思われる旅行を十分に楽しませて頂きました。

 

EGGCOSMOS外壁塗装

2015/03/28
20年の自宅の外壁を遣り替えました。RC打放し部は汚れやすいので、5年ごとに洗いをかけたり、撥水剤を塗布したりしましたが、どうしても寿命が短いので、今回はタイル部も含めて無機質のガラスコート仕上げとしました。従来よ築りかなり汚れ難いはずですし、期待耐久性は20年以上とのことです。

CUGジャズオーケストラ

2015/03/23
CUGジャズオーケストラ、結成26年の今年も名古屋能楽堂でのライブ(03/22)。能楽堂の内部はそんなに広い空間ではないが、2回に分けても満席の観客でした。ビッグバンドの迫力と即興、個々のミュージシャンも素晴らしいが、これだけの質と量を束ねるリーダー(小濱さん)はよほど人望のある人なのだろう。最後は将来を夢見る中学生も交えて、楽しい「Smile」の演奏だった。録音も写真もご自由にというのも珍しい。ライブの後4人で飲んだお酒が美味しかった。

五島列島

2015/03/09-11
九州最西端、五つの大きな島と140余りの島々。その向こうは東シナ海、18回の遣唐使船のうち、最後の停泊地や最初の帰国地になったことも。
 1566年イエズス会宣教師が来日、江戸幕府による禁止政策により、五島のキリスト教は一度は完全に衰退したが、1797年長崎から108名の潜伏信者が五島に移住。その後さらに3000人以上の信者が秘密裏に移住した。これらの人が潜伏キリシタンである。キリスト教迫害の時期、見つからない地に身を隠して住んでいた。幕末維新の1865年長崎の大浦天主堂での「隠れキリシタンの発見(信徒発見)」、その後多くのキリシタンがその信仰を明らかにし始めたが、明治政府は神道の国教化のため江戸幕府のキリスト教禁止政策を引き継いだため、悲惨な拷問や弾圧が行われた。その後、明治政府の方針転換により信仰の自由が認められると、五島各地に次々と教会堂が建てられるようになった。現在上五島に29、下後藤に20。(上五島は25%、下五島は8%がカトリック信者)
 島の各地の信者の数は限られているので、教会堂といっても規模は小さい。平面形は大抵どれも長方形、外陣は3廊式バシリカが基本。内陣は必須だが、アプス(後陣)がない場合もある。ステンドグラスの窓や一応バラ窓もある。天井は木製のリブボールトか舟底型のビーム天井。一つだけ石造だったが、あとは煉瓦造か木造。敷地の制約があるので、正面が西側、アプスが東とは限らない。少人数の信者が自分の住まいをも犠牲にして寄付したというお金で、造ったということなので、当然予算は厳しく、時間もかけてずいぶんと苦労して造ったということだ(現在は70%が補助)。最近造られた安っぽい建物とは比較にならないほど丁寧で独創的な教会群だった。
 1965年の信徒発見から今年は150年目になる。大浦天主堂を初め、長崎の教会群として世界遺産登録の申請をしたという。料理も美味しいし、観光客が少ないせいか(観光バスは我々の1台だけ)どこでも大歓迎を受けるし、見るだけの旅でなく思いを馳せられる楽しい旅だった。